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 これまで養生ということについてさまざまな見方や定義付けがなされてきており、またその養生のために様々なことがなされてきた。養生を延命と捉えた者達は不老不死を目指して錬金術を行い丹薬を飲むなどし、養生を神仙思想から捉えた者達は霊芝を喰らうなどということをしてきている。そうした中で、では現代の我々の生活に生かすことのできる養生とはどのようなことであるのかについて、どのような養生の捉え方が正しかったのかという見方ではなく(養生という言葉の定義づけによって正しさは変化するため)、私独自の養生についての定義を述べたい。
 「養生」とは「生」を「養う」と書くが、「養生」において「生」の捉え方には「一般的な生」と「人を超えた生」とがあり、また「養」には「維持」と「延命」の二通りの捉え方があるように考えられる。もちろんこのような区別・解釈は些か大雑把過ぎる感は否めないが、「人を超える生」ということに焦点を当てたものが神仙思想であり、「延命」ということに焦点を当てたものが不老不死の思想なのではないだろうか。しかし神仙思想や不老不死の思想といった思想は現代の我々の生活、多くの人々が取るべき生活態度としてはあまり適していないように感じる。というのも神仙思想に基づいた生活というのは仙人と呼ばれたような人々が送った生活であり、不老不死に至っては皇帝などの大変身分の高い一部の人間が求めたことだからである。もちろん延命は医学として現在行われているが、これは人生の終盤に差し掛かってからのことである。となると、我々の生活に適した養生とは「一般的な生」の「維持」ではないだろうか。
 では「一般的な生」の「維持」とはどういうことか。簡単にいえば健康の維持ではないだろうか。あまりにも簡単すぎて養生と言うに相応しいのかと疑問を感じてしまうが、しかし何がどう健康かということは少々難解な問題である。健康の対象にはおそらく心と身体があるだろう。このどちらかを健康の対象とするならば問題はそれほど難解ではないが、心と身体はいずれも個を形作っている大要素である以上決して切り離せないものである。
儒教の中心的教えの一つに「中庸」ということがあり、これは心・身体の健康の手助けに成り得るものの一つであると思われる。では中庸的バランスを保つためには何をすればよいのか。中庸とは人それぞれに対して異なった位置に設定されているものであり、またこれは中庸の対象に概念的なことが多いことや対象となる思考・行動が無数に存在していてまたそれらが複雑に結びついていることもあって数値的に求めることができないものである。そのため中庸的バランスを保つためには自身の持つ心と身体の理解、それも単に理論での理解だけでなくイメージ的な理解も必要であると思われる。内丹という考えや気の循環という考えは心と身体のイメージ的な理解を助けるものとして自然に、しかし必然的に考えだされたのではないだろうか。
 しかしどう健康であるかということに関して、単に中庸であることが健康なのだろうか。確かに大概どのようなことに関しても、過度に、ことさらに何かを欲するということは何かを失うということにもつながり、この喪失が心・身体に好ましくない働きをする。しかし中庸ということは健康のための一つの方法であるのではないだろうか。であるならば健康とは何か。心・身体共に病気でなく障害がないことだろうか。けれど考え方によっては重力というものも我々にとっては障害である。また重力を障害として考えたとしても、しかしこの障害がなければ我々は地に足をつけていられない。障害は一方で可能性でもありうるのである。つまり障害を取り除くことがすなわち健康であるという見方は難しい。であるならば、私は心と身体についてよく理解し、それによって自ずと行動や精神の持ち方が現れてくることが健康という状態なのではないかと考える。
 もう少し具体的に、心と身体についてよく理解するとはどういうことか。内丹でいえば存思・胎息・導引などが心と身体の理解のための方法と言えるだろう。存思は心、胎息は身体、導引は心と身体の両方の理解につながるのではないだろうか。つまりここでの理解とは人の自然なあり方、あるいは本来性を見つめなおすということであり、それによって外部の影響を受けていない有りのままの心と身体を理解することである。であるならば外丹・外からの影響は全て心と身体の理解の障害になるものかと言えば、そうでもない。心と身体を持った自らの所有する個が世界の中の一点に位置している以上、外界・世界との関わりを無視することはできない。世界が自らの個にどのように影響しているか、自らの個は世界にどのような影響を与えているか、この影響をエネルギーという言葉に置き換えれば、世界をエネルギーはどのように循環しているのか、人が生み出すエネルギーはどのように世界の中へ取り込まれているのかを理解することが必要である。そして内丹にしても外丹にしても普段自然と行われていること、我々の存在と世界のベースとなっているものを見つめなおすことであるから、心と身体の理解とは自分の中にある無意識の意識化というようにも言い換えることができるだろう。
 イメージによって無意識の意識化を促し心と身体の理解を得、そこから自ずと行動や思考が現れてくるという状態、これを健康と呼ぶならば、では自ずと現れてくる行動や思考とはどのようなものだろうか。無意識を意識化したときに見えてくるものは自分の無意識のうちにどのような働きが存在していたのかということである。その働きは言い換えれば主観的重みづけであり、多かれ少なかれ事実・有りのままの状態からずれている。心と身体を理解することによって自ずから現れてくる行動・思考とはこのずれ・主観的重みづけの解除ではないだろうか。主観的重みづけの解除を行うことにより行きすぎた欲望や苦悩から解放されるはずである。
しかしこの主観的重みづけの解除には多少問題があり、それはこの主観的重み付けが自我と強い関わりを持っているために養生が自己の深層を見つめなおすということである以上いくらかは心を病理的方向へ向かわせてしまう危険性があるということである。このとき考えられる病理的傾向とは自我の空虚感であり、主観的事実の喪失、自我の喪失である。これはどうあっても避けなければならないことであり、それ故に悟りと呼ばれるまでの養生は困難を極めるのではないだろうか。けれども今述べたような喪失も捉え方次第であり、これを受け入れることができれば即ち自然との一体化、世界との同一化と称されるような境地に至り、世界を流動するエネルギーの流れに身を任せ真に良い生を養うことができるのかもしれない。
 養生の危険の可能性を上記したが、しかし一般に推奨されるような養生はそこまで深い養生ではないだろう。といっても養生のための方法、主観的重みづけの解除は変わらないはずである。養生も一つの変化である以上心理的危険性が完全にないということはあり得ない。であるならばどのような主観的重みづけの解除が良いのだろうか。これもやはり過度に求めないということであるように思われる。つまりことさらに養生を求めなければイメージによる無意識の意識化が緩やかであることもあって心理的危険はほぼ回避できるはずだ。
 では再び現代における我々の生活に生かすことのできる養生とはどのようなことか。養生の目指すところを心と身体の安寧に設定するならば、それらは養生のための思考と行動の後に自ずとついてくるものであるため、我々の取るべき態度はただ自らの心と身体を見つめなおすことである。その心と身体を見つめなおすという過程が養生であり、またそれによって自ずから現れてくる思考と行動の自然な維持が養生であろう。我々の過度な欲望や苦悩は意識無意識に関わらずそのときの自分の心と身体の状態の現れであり、これは単純にいえば主観的な捉え方・主観的事実によるものである。よってこの主観性を軽減し自分と自分の位置・状況を客観的に捉えることでより平穏な生活を得ることができる。もちろん大きな苦しみを抱えていずとも、たった一つの存在ではあるがたった一つの存在でしかない自己とその自己の心と身体に起こっている現象をいくらか他愛もないことと考えればそれだけでも心と身体は軽くなるはずである。養生論の思想・歴史の中に登場する神と呼ばれるような存在は自分という存在を他愛もないものとして認識するためのイメージ化の助けをしているのかもしれない。何であるにせよ養生とは今ある生をより良く養うということである。言い換えればそれは良い生を養っていると心から思うようになるということであり、そのように思うことの弊害となる主観的事実を消滅させることが重要なのではないだろうか。
ここまで長々と持論を述べてきたが、しかしふと、正月早々膵臓炎で入院してしまった私が養生について述べてよいのだろうかと感じる。
 
 
最後に少しだけ公開授業を通して考えた私なりの「無」について記させてください。
 
無:存在せず不確かであるが人がそれを求めるがために確かであると思われ、その結果個
の主観的事実の同一した部分として集合を形成し実質上存在してしまっているもの。
真を生み出す真らしき偽、希望、神などと言い換えられる。「天下の万物は有から生じ、
有はうっかり生じた」のかもしれない。有と無が形容詞的意味と動詞的意味も持って
いるがために使用に際して反訓現象が生じる場合があると共に個人個人においても無
意識定義付けの段階で反訓現象が起こってしまっていると思われる。これを回避する
手段としては有と無の両者に「存在」という名詞的意味を持たせることがいくらか有
効なのではないだろうか。

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ジョン・ジョージ・ヘイグについて
 
 
 裁判において加害者が精神的病理を抱えていたか否かは大きな問題となる。本レポートではイギリスの有名なシリアルキラー、ジョン・ジョージ・ヘイグについて考察してみたい。
 ジョン・ジョージ・ヘイグ(以下ジョン・ヘイグ)は1946年から1949年の間に9名を殺害し、いずれの遺体に関しても硫酸入りのドラム缶に溶かして処理をした。そのことから彼は「硫酸風呂の殺人者」と呼ばれるが、硫酸風呂殺人は彼が「『CORPUS DELICTI』が無ければ罪に問われない」というイギリスの法律の条文を誤解し、「殺人を犯しても死体が発見されない限り罪に問われない」と捉えたためであり、その誤解の上では硫酸での処理は比較的合理的なものであったと考えられる。仮にジョン・ヘイグを反社会性人格障害、あるいはサイコパスと診断してみてはどうだろうか。これらの特徴としては、良心の異常な欠如、他者に対する冷淡さや共感のなさ、慢性的に平然と嘘をつく、行動に対する責任が全く取れない、罪悪感が全く無い、過大な自尊心で自己中心的、口達者で浅薄な魅力などがあるようだが、このほとんど(全てと言ってもいいかもしれない)がジョン・ヘイグには当てはまっている。良心の欠如や罪悪感のなさに関しては、彼が行った殺人という行為にはもちろん、その方法に関してどのようにすれば法律上罪に囚われないかということに着目したことにも表れているようにも思う。また裁判中クロスワードパズルを解いていたというエピソードも彼の異常な罪悪感のなさを示しているだろう。口達者で浅薄な魅力としては、警察の尋問に対して平然と「彼女を殺したのは私ですが、夫人を硫酸で跡形もなく溶かしてしまったから殺人事件として立件できませんよ」と答えるというような態度がまさにそれに当たるように思われる。平然と嘘をつくということに関しては、精神異常を装うために「被害者の血を呑んだ」と供述したことがそれに当たるだろうか。
 ところで最後に記述した「被害者の血を呑んだ」というジョン・ヘイグの供述だが、これが本当に精神異常を装うためのものであったのかどうかというところは定かではない。当時「ロンドンの吸血鬼」とも呼ばれたジョン・ヘイグは自らの手記に「9人の犠牲者全ての喉を斬り裂き、そこから溢れる血をコップに集めて飲んだ」という記述をしていた。また手記には「12歳の時に手を怪我して自分の血を舐め、そのときに自分が吸血鬼の子孫であるのを発見した」という記述や「1944年、35歳で自動車事故にあい、頭からの出血が口に入り何かが目覚めた」という記述、「そのときをきっかけに血の滴る十字架の森を彷徨う夢を見るようになった。森の中には、血を集めた盃を差し出し「飲め」と命じる男がいた」「やがて夢の中だけでは吸血の欲求は満たされなくなり、現実の殺人を犯し、被害者の血を飲んだ」という記述なども記されていたようである。ジョン・ヘイグはさらに「自分は吸血の欲求に従ったのであり金銭を目的として殺したのではない」としているが、裁判においては彼が実際には殺害した相手の所有物を売り払いかなりの金をもうけていたことや、吸血の証拠となる遺体の喉を裂いた跡も全て硫酸によって溶かされてしまい確認できないことから、ジョン・ヘイグの弁護側が提出した彼はパラノイアであるとする医師の所見も偽装であるとし、ジョン・ヘイグは1949年の8月に絞首刑となった。確かに彼が吸血の供述前に捜査官に「ブロードムア(刑事犯専門の精神病院)から出られる見込みはあるんですかね?」と訊ねていたことも彼がはなから精神異常を装い刑罰を逃れようと考えていたためと捉えることもできるが、問題はジョン・ヘイグの手記が書かれた時期である。どうやら彼の手記は死刑確定後に書かれたものであるらしく、最後には「永遠の命なんてあるのだろうか。俺はもうすぐそれを知るだろう」と記述されているとのことである。もしこの手記が記述された時期が本当ならば、そもそも彼の手記は判決を左右させるものではなく、すでに彼にとって精神異常を装う意味もなくなっていることだろう。最後の時間を吸血鬼を演じることで楽しんでいたということも十分に考えられる気はするが、ジョン・ヘイグは殺人犯であると同時に詐欺師でもあり、単なる愉快犯ではないような印象が持たれる(慢性的に平然と嘘をつく性質の延長線上とも考えられるが)。であるならば、本当に彼はパラノイアだったのだろうか。ここであえてもう一つの可能性を考慮してみたい。もう一つの可能性、それは死刑判決によって彼は本当にパラノイアになってしまったのではないかという可能性である。
 彼の反社会性人格障害、あるいはサイコパスとしての性質は人間らしさの欠如によるものであるように思われる。人間らしさ、この場合良心や罪悪感のことであるが、そういうものの欠如がジョン・ヘイグには確かに有り、また自己中心的な性質は自身の人としての特異感ともつながりが強かったのではないだろうか。ここからはまったく推測の範疇を超えないが、そうした特異な自身が初めて他者から死刑という判決を下されたことにより、他の人々と同様に自分も罰せられる存在なのだという認識が生じ、人としての特異感が減少したのかもしれない。それは言い換えれば人間らしさの獲得であったのかもしれないが、その人間らしさの獲得は精神のある部分の欠如ではなく異常を生じさせ、失われた特異感が人間らしさ独特の不合理的なものとして再び生じ、つまり本当に自分は吸血鬼なのであるという考えがまるで既知的なものとして生じたのではないだろうか。真実はわからないが、見方によっては反社会性人格障害、サイコパスは人間らしさの欠如と合理性による結果であり、それが人間らしさを獲得することによって不合理的な妄想を生じさせたのかもしれない。もしかすると人間らしさは一方でそれ自体が病理を引き起こすものであるのではないだろうか。
 
 
参考文献
 
ジョン・ジョージ・ヘイグ MADISONS http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text/haigh.html
ジョン・ヘイグ ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wi ki/%E3%82%B8%E3%83%A7%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%B0
ジョン・ジョージ・ヘイグ 吸血鬼の手帖 http://dracula.sblo.jp/article/4907622.html

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